古い戸籍の話、明治、大正の頃から思い切り古代に飛んで平城京の頃、大宝律令が制定された701年、その翌702年に作られた戸籍の話。
昨日9月24日、当市の各務原歴史研究会というところが主催する講演会があり出掛けて来ました。講演のテーマは「奇跡の半布里戸籍ー古代戸籍を紐解く」
半布里(はにゅうり)戸籍、正倉院に残る最古の戸籍。講演者はこの戸籍が作られたとされる岐阜県加茂郡富加町の教育委員会の文化財専門官。
羽生という地名は町内に残っており、この地名室町期には埴生郷、羽丹生郷、江戸期に羽生村と変遷。正倉院に残る正式名は、
「大宝2年御野国加毛郡半布里戸籍」(たいほうにねん みのこく かもぐん はにゅうり こせき)
大宝2年(702年)に作成された現存最古、紙に書かれたもので世界最古と当日の資料の最初に書かれています。講演は休憩を挟んで2時間、なかなかに興味深い話が続きました。
当市でも5千年前の遺跡が発掘されて素焼きの壺や生活の痕跡が保存されていますが、美濃近辺には大昔からの史跡が沢山ある。
富加町のHPにこの戸籍の事がアップされています。
大体はこのHPに書かれている内容のお話。先般訪ねた川辺町役場も加茂郡、富加町も加茂郡。隣に美濃加茂市があってここは旧中山道の太田宿が主体、近隣の加茂郡の町村と合併する際その加茂の字を入れてる。
旧国鉄の駅名は美濃太田駅だし本当は美濃太田市としたかったんでしょうが、美濃加茂となって、でもこうしてみると加茂郡の方が先輩、順当だったんだとも思えます。
岐阜市近辺には山県郡(やまがた)、方県郡(かたがた)という地名があって、正倉院に伝わる古戸籍にはこの郡のものもあると書いてあります。
こうした戸籍が作られたのは班田収授のための台帳として、中央集権的な律令国家としての税制、兵役、身分についての云わば国勢調査。
今は5年毎だけどこの戸籍は6年に一度行われていたと、それを郡の役人が3通作成し1通を郡にとどめ2通を都に送り天皇の御覧にも擬したとあります。
さて1300年以上も前のそれが残っていた理由、なぜ正倉院にあったのか。これは奇跡的偶然のたまものだと講演者は解説。
都へ送られた戸籍は6年後に更新され古いものは公文書として30年間保存。年限を過ぎると廃棄処分とされる筈が裏面の再利用目的で運よく東大寺に払い下げられた。
752年東大寺大仏開眼。この時の経費等支払い帳にリユース。753年頃正倉院完成、大仏建立の関係書類が正倉院中倉に収められる。
これだけなら埋もれたままになってたけれど天保7年、江戸期に正倉院に落雷、修繕のため宝物が東大寺へ移管され国学者「穂井田忠友」による調査で発見。
当時紙は貴重だったから同じ頃の記録には木簡が使用され、平城京跡から出土の木簡にもこの戸籍と関係があると思しき人物の名前が書かれていたという話もありました。
このあたりの中学校、小学校、今は制帽をかぶらない様ですが、校章には勾玉が対でデザインされていた。古墳、遺跡から出土したもの、大昔から人が暮らしていた証。
その証がこうして文字の記録として今に残ってる。矢張り日本は記録の国だ。それが出来るのは多くの人が文字を読め書ける事。
1300年前の飛鳥、奈良時代、法隆寺の完成した頃。聖武天皇、天武天皇、持統天皇、元明天皇、桓武天皇への御代。
今に続く一統とともに歴史がしっかり記録され残ってる。文化、文明の証し。学校で習った一遍通りの歴史授業の隙間、襞には興味ある話が詰まってますね。
前回の講演会は「中山道と鵜沼宿」だった。次回は「木曽川と川島 大河の流れとともに生きて」郷土史はなかなかに興味深い、かつ面白い。