あき竹城が亡くなったというニュース。75歳、団塊の世代あたりの有名人の訃報をよく聞くようになって来ました。この人には少し思い出があります。
1975年頃、まだ20代だったけれど、有楽町の駅を降りて目の前にあった日劇、その脇にあったミュージックホールに通ってた頃があって、とはいっても2カ月に1回程度。
日劇ミュージックホールの看板には「ヌードの殿堂」とあって、裸で(下は見せない)見事なおっぱい突き出した女性が踊りを観客に見せてくれるショーホール。
結構高い入場料だったけれど2カ月毎の公演入れ替えごとに出掛けてました。何がそんなに引き付けたかと云うと、偉そうに云う訳じゃないけれどあの空間の知的レベルは非常に高かった。
行く事になった切っ掛けは、よく覚えてないけれど多分「話の特集」という月刊誌の記事あたり。小沢昭一とか永六輔とか一癖ある知識人や芸人が原稿書いてた。
小沢昭一は空飛小助の写真撮って話の特集に載せてたし、支配人の丸尾長顕とかギター演奏してた深沢七郎とかも出てたような、その辺で興味持ったのかも知れない。
(空飛小助 ミュージックホールにも出てた小型の芸人さん )
それで矢印の針が回って階数を示す古くさいエレベーターに乗り4階だか5階のホールへ上がって観客席に身を沈めたわけです。
いきなりもう魅入られたのは見事なオッパイもそうだけれど、ショウの構成、演出してたのが寺山修司。この時の2時間余りでミュージックホール中毒に掛かってしまったわけです。
その時のパンフレットが手元にあるから拾ってみると、作・演出が寺山修司。スタッフに振り付け竹邑類、アキコ・カンダ、衣装コシノ・ジュンコ、装置宇野亜喜良、
出演、新高恵子、サルバドル・タリ、若松武、要するに天井桟敷の面々。スター踊り子舞悦子。と云ったって普通の人は知りませんわね。体の線が崩れ始める引退前のギリギリに間に合った。
寺山修司の構成・演出は、ピノキオ、赤ずきん、アラジンの魔法のランプ、ジャックと豆の木、長靴をはいた猫、青髭という童話を寺山流解釈の艶笑譚に換装。そのエスプリ、くすぐりに魅了されてしまった。
この時にあき竹城は出演していなかった。何回か通ううち竹邑類の構成演出の公演で彼女は幕間のコントに出て来てこれが拍手喝采、山形弁のナマリ丸出しで客席大喜びの熱演。
それからしばらくしてテレビに出て来たからあのズーズー弁を聞いて客席にいた芸能関係者がスカウトしたんだろうと勝手に思ってました。本当のところは知らない。
日劇ミュージックホールの踊り子から女優になったと云えば春川ますみがいて、谷崎潤一郎は春川ますみを贔屓にしてミュージックホールに見に来ている。
この他にも三浦哲郎が踊り子シリーズの小説を書いてるけど、これは小説現代だったか新潮だったかの連載。情緒のあるいい短編シリーズだったけれどこの時はまだモデルの事は知りません。
主人公夕雨子のモデルは水原まゆみという踊り子。この人は英語が得意らしく舞台の上から外人客に英語で話しかけたりしてた。
再開発で取り壊される前の日劇の脇を駅の改札出てから左へ向かうとレバンテというビアレストランがあって、その先に旧朝日新聞社屋。ミュージックホールのシートに沈んでた新聞記者も沢山いたんではないか。
その立派なおっぱいと山形弁で大いに楽しませてもらったあき竹城。同時代を生きて来た同志として、合掌。
話の特集という今はない月刊誌。60年70年80年代半ばにかけて、お世話になりました。右も左もごっちゃまぜの言論誌、カルチャー誌。
本棚にかろうじて1冊と100号記念誌。昭和48年と49年のモノ。
記念誌には各界著名人による座談やら対談。
拾ってみると、野坂昭如と五木寛之。山下清と坂本スミ子。深沢七郎と竹中労。北杜夫と吉永小百合。遠藤周作と嵯峨三智子。ジャイアント馬場と矢崎泰久(編集長)
遠藤周作が吉永小百合じゃなく嵯峨三智子と対談して、肩を抱いてニヤついてる写真。嵯峨三智子、飛びっきり妖艶な美女。(顎の線が舞悦子と似てる)
加賀まりこ、安井かずみ、鈴木清順。 小田実、堀江謙一、三浦雄一郎、式場壮吉、森村桂。 深沢七郎、竹中労、野坂昭如、永六輔。 小田実、鶴見俊輔、谷翰一、吉川勇一、角南俊輔。
この他寄稿者に 稲垣足穂、黒田征太郎、村上元三、伊丹十三、星新一、神吉拓郎、荒木一郎、植草仁一、池田満寿夫、太田竜、赤塚不二夫、澁澤龍彦・・
まだあるけどすごい顔ぶれ。この70年代ごちゃ混ぜがやがて収斂し右と左が分かれて今に至るんでしょう。