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古代に創建されやがて廃寺となった寺院跡の歴史散策

 昨日6月4日日曜日、地元の歴史研究会主催の古代寺院ウォーキングという催しがあって参加。うちから3~4㎞範囲内に5つばかりの古代寺院が集中、その痕跡を訪ねるというもの。

 各務原歴史研究会は年間5回ほど講演会が開催され去年から参加し岐阜県を中心にした郷土史を拝聴。これがなかなかに興味深く面白い。

 地元の中学校の校章が桜の花びらに抱かれた向かい合いの勾玉二つ。これは地元から出土した古代の遺物。遺跡は沢山あって5千年前の竪穴から前方後円墳迄ある。

 先月に行われた講演会は矢張り家から4.5キロの所にある坊の塚古墳という前後長124mの前方後円墳の話。どうやら古代からこの地には歴史が詰まっているらしい。

 知らなかった事ばかりで今回の古代寺院ウォーキングもどんな話が出て来るのかと楽しみにして参加した次第。

 講演会には毎回100人位参加者が居るけれど当日集まったのは8名ほど。まぁでもゾロゾロ多人数で日曜日の午後連なって歩くのは周り迷惑。

 案内の世話役さんの話を聞きながら歩くには丁度いい人数。その構成を見ると多分75の私が最年少、80代と思しき人も一緒に2時間ばかり歴史巡り。

 山田寺(さんでんじ)という古代寺院跡、古代、中世、近世と歴史を繋ぎ中世の山田寺鎌倉時代から戦国時代まで続き信長に焼き討ちされたとの伝説。真相は定かならず。

 現存する山田寺は1737年に建立、臨済宗象耕山山田寺と門前に石柱。今は無住、地元の人が管理しているそう。古代の山田寺はこの200mほど北方にありと案内板に記載。

 次に2~3百メートル歩いて臨済宗妙心寺派無染寺。ここには山田寺の塔芯礎、塔の中心柱の大きな台座石があった。この大きさからすると相当大きな塔が建ってた様子。

 続いて中世の武家館跡、鎌倉から室町時代にかけての武家、あるいは豪農の館跡。土塁と堀が現存しその中に住居、今も人が住んでいる。

 この遺跡をここに住む人が管理し整備しているという。よく聞き取れなったけれど遺跡の保存について前市長は金を出すのが嫌で岐阜新聞社長がその文化財保護を説いてたとか何とか。

 貴重な遺跡だそうで土塁の上の草木、雑草は掃除されきれいに手が入れられていたけれど文化財の保護を個人が担っていくのは大変。

 近くで新築の工事現場、整地の際に古代の瓦等が出土したとか、掘れば出て来る文化財。回り住宅街に変わってその下には一杯歴史が詰まってるんでしょう。

 次は無盡山平蔵寺、ここにも大きな石の塔芯礎、どういう訳か真っ二つに割れて半身の行方は知れず。この他に2つ古代寺院跡があるけれど少し遠いので今回は訪ねず。

 1時半から3時半まで、歩数にして6千歩あまり3kmくらいの距離。この範囲内に5か所もの古代寺院が集まってあったという理由。

 誰が創建しやがて廃絶してしまった理由、それはまだ不明だけれど多くの人がこの地に居てそれまりの賑わいがあったと想定される。

 素人でも身近な暮らしのそばにある歴史の痕跡を訪ねて思いを馳せるのは一興。楽しい時間でした。あと思ったのは地名というのは大事なという事。

 近くに伊吹という町名があり、これは単に伊吹山の名を持って来たものかと思ったら、地元の人が云うにはいぶきは息吹、火を起こし何らかの加工をしてた職能集団の事ではないかと。

 そう云えば須恵という町内もあって近くには遺跡があり須恵器の窯跡、焼き物を作っていた名残の地域名。伊吹もそうではないかと。

 今は一町名だけど以前はもっと広い範囲で一帯がいぶきであったそう。人口が増え住宅街が出来新しい町名が付けられたりするけれど、古来の地域名はきちんと記録しておかないと歴史が消えてしまう。

 身近な郷土の歴史、人々の暮らしの足跡、今回のウォーキングは7世紀頃の寺院跡から現在に至る迄1300年の時空探訪。

 興味深く楽しかった。企画準備してくださった歴史研究会の方々に感謝。 

 

 臨済宗 山田寺 無住となって地元の人たちで管理。無住のお寺はこの辺り他にもたくさんあって仏教も時代の変化に直面。