岐阜県にある遺跡が国の史跡指定を受けたというニュース。
一つは以前にブログに上げた事のある郡上市大和にある「東氏の館跡遺跡」もう一つは当市にある前方後円墳「坊の塚古墳」
定家直筆の古今集注釈書 冷泉家で発見 奥美濃の古今伝授 - 晴れたり曇ったり
当市各務原市は昭和38年、1963年に稲葉郡4町が合併して市となった。中学校3年生の時、同じクラスに合併前の町長の息子がいたし市章公募でクラス内盛り上がってたからよく覚えている。
中学校の徽章は勾玉が左右一対配されてこれは町内小学校3校も同じだった。つまり勾玉がこの地から発掘されていたという事。
古い遺跡があったという事はその事で知っていたけれど遺跡がどこに有ったのかまでは知らなかった。町、市もその当時は遺跡発掘等への関心や予算への配慮までは手が回らなかったではないか。
2年ほど前から市や有志の主宰する歴史研究会に出るようになってこの地の歴史の奥行きの深さに目を瞠らされるようになった。
知らない事ばかりで、古くは2億年前の放散虫の化石を閉じ込めた木曽川河畔のチャート層から、石器、古墳、縄文、弥生、武家社会、戦中戦後の現代までその痕跡あちこちにある。
驚いた事に当市には古墳が500とも600ともあるという。数年前に発掘調査された古墳跡に行ってみたけれど宅地化が進んで調査後は埋め戻し。
知り合いが近くで畑をやっているので聞いたら、耕しているとカチッと石の矢じりが出て来るよと云う。市が発展し人口も増え土地開発が進むとそのまま埋もれてしまう遺跡も沢山あるのだろう。
坊の塚古墳は4世紀頃に作られた全長120メートルの前方後円墳。平成27年に初めて正式な発掘調査が始まり円筒埴輪やつぼ型埴輪が出土。
ここを去年の夏訪れた時懐かしい思いで一杯になった。名鉄各務原線の羽場駅を降りて距離にすれば2~300mほど桑畑の中を歩いて母方の祖父、祖母、母の弟の叔父さんが住んでいた家にたどり着く。
多分九州へ引っ越す事になって子供4人を連れ挨拶に行った時のことだと思う。おじさんと家の前の空き地でキャッチボールをした事を覚えてる。
この空き地、神社のように記憶していたけれどここに神社はない。今思うと当時地区の所有地だった古墳の前でボール遊びをしてたのかも知れない。
その家は借家だったけれどこの辺りに21号線のバイパス工事が行われた事もあってか今はもうない。近所の人に尋ねてみたけれど知ってる人はいなかった。
おじいさん。おばあさんとおじさんがここに住んだのは終戦で朝鮮から引き揚げて来たから。おじいさんは木曽川の支流飛騨川沿いにある七宗という所の出。
若い頃朝鮮にわたって一家をなし5男4女を育てた。姉がいて時々朝鮮に遊びに来てたと母親がよく云ってたから仲が良かったのだろう。
姉はこの古墳のある鵜沼という所の農家に嫁いでいた。引き上げ後は姉を頼っておじさんが大学を出て就職するあたりまでこの地に住みやがて名古屋に移って行った。
そういう経緯があるからこの羽場という駅名、駅から高山線の高架を渡って、もう今は家ばかりになってしまった桑畑の中を歩いて行った事が懐かしく思い出される。
勾玉は翡翠を加工し穴をあけその形状は独特。翡翠の産地は糸井川沿いの他にはビルマ。翡翠は日本の国石。台湾にある故宮博物館の翡翠の白菜はビルマ産。
勾玉、翡翠、前方後円墳、埴輪、4世紀前後の日本を証する遺跡や埋蔵物。
韓国でも埴輪が見つかったらしい。記事は割とフラットだけど韓国側のコメントと日本側のコメントと較べてみると中々に興味深い。
昨夕7時、食後散歩に出ようとしたら丁度夕日が沈む所。
カメラを肩に出掛け西方を眺める。7時20分頃、真っ赤な夕焼け。
でもこれはカメラの写り具合、こんなに真っ赤ではなかった。