定家直筆の古今和歌集の注釈書が見つかったというニュース。書かれたのは承久3年3月21日(1221年4月15日)
この年の6月には後鳥羽上皇の討幕の乱が起こった。幕府軍が京へ攻め上がって朝廷軍と対峙したのは各務原市の木曽川畔、前渡の戦い。
ここでの戦いで幕府軍は勝利し朝廷、公家から武家の支配に移り負けた朝廷側の荘園は没収され御家人たちの所領となった。
その承久の乱の武功により下総香取郡から美濃国郡上郡山田荘を得た人に東氏(とうし)、地頭として入部、以降340年にわたって統治。
と、これは資料を書き写してる。当市には有志の方が主宰する歴史研究会が二つ程あり毎月行われていて昨年1月に行われた講演会の資料から。
東氏は武勇に優れた武家でもあったけれど歌道にも名をはせた家柄。中に10代東常縁(とうのつねより)は古今伝授の祖と書かれている。
東氏の住んだ館跡のある郡上市大和町には「古今伝授の里フィールドミュージアム」という施設があって記念館や文学館、文化財展示などが行われている。
以前からこの標高の高い山の中の街を富山側へ通り抜ける時に「古今伝授の里」という標識が立っている事は知っていたけれどその内容については知らなかった。
それを講演会で知ってさらに昨日のニュースで京都冷泉家に藤原定家自筆の古今集注釈書が発見されたと知り「古今伝授」に注目。
・・和歌の奥義を伝承する「古今(こきん)伝授箱」であることが判明。歴代当主が一生に一度だけ開け、秘伝を継承してきたとされる。・・
中日新聞にも今朝の朝刊に記事、定家の記した古今和歌集の注釈書『顕註密勘』(けんちゅうみっかん)と書いてある。
大和町の古今伝授は東家の家伝、定家のものとは別だけどまるっきり別でもなさそう。講演会の資料を読んで行くと、
・・藤原道長の6男長家を祖とする御子左家は、藤原俊成、定家父子の代に歌道の家として確立。定家の子為家の子3人が相続を争い二条家、京極家、冷泉家に分かれた・・
・・東常縁は京において和歌を学び二条流を受け継ぐ尭孝に和歌を学び二条流の秘伝を授けられた。・・
さらに、
・・東常縁はこれを宗祇に伝授、宗祇は三条西実隆に更に細川幽斉、後水尾天皇へと伝えられたと、それで東常縁は古今伝授の祖と称されているそうだ。
こんな山深い奥美濃の里に平安、鎌倉からの歴史が息づいていた。この講演を聞いた時には、もとより浅学なれど知らなかった事ばかり、日本の歴史の奥深さに些か感動もしたもんです。
それと、こんな昔の古文書がそのまま残ってる。冷泉家が代々継承してきた歴史もすごいが定家自筆の書き物がそのまま残ってるというのも凄い話だ。
虫食いもあるそうだけど修理をするという。修理ができる和紙の耐久性、すごい話だ。
そういえば何処かの博物館の古美術補修に韓紙が使われたというニュースがあった。
こうして日本の文化や歴史をパクって恥知らずに本家を僭称する。薄汚いニュースを挟むのも不愉快だけど指摘しないとのさばるから追記。
その後ダビンチの作品復元に韓国の伝統紙である8000年の耐久性を持つ韓紙が使われるというニュースもあった。どこから8千年が出て来るんだ。
美濃和紙の本場美濃市に来て紙すきを教えて貰ってるくせによくそんなホラが吹けるものだ。
美濃和紙の講演もこの講演会で去年行われ拝聴したけれどその時紙すきの道具も展示されてた。
紙を漉く簾、竹のひごで出来ているんだけどその繊細さ、細く長いひごを緻密に糸でつないで両端把手を付ける。
職人仕事、あの簾があって紙は透ける。楮を採ってきて叩き繊維にする。それを晒し煮て漉く。
それぞれの工程に職人さんがいてあの繊細な和紙が出来上がる。長い年月かけて工夫した結果としての和紙。
もうあの竹ひごで作る簾の職人さんはいないのではないか。伝統は大切にしたいけれど伝えていくのは難しくなってきている。
最盛期の明治には4708戸あった戸数が現在17戸。それでも美濃市では紙を漉いている職人さんたちが今もいる。
改めて日本の歴史、文化の奥深さに感じ入り先人の残した足跡を誇りに思います。
昨日午後歩いている時見慣れない鳥発見。スマホで撮影。
イソヒヨドリではないか。その先にも一羽、これはメスかな・