1945年 昭和20年 8月15日 敗戦
当市の歴史研究会が主宰する講演を聞くようになって古代から現代まで知らなかった事あまた。地元の事だから歴史の検証もリアル。
先日は市内にある前方後円墳の話、私有地だったものが市に寄贈され発掘検証が進んだという話。後日訪ねてその大きさを実感。
別の日、昭和20年6月にあった米軍機による当市大空襲。B29による空襲の実際を高校生が調べて市民の前で講演したという話。中日新聞に記事掲載。
2,3日前市の図書館で各務原市内から発掘された石器を展示する企画。矢じりや石の斧その他数々の石器が並べられていた。
これは畑を耕していて出てきた石器の数々。それを集めた人の中に知り合いがいて、この人は米軍空襲時の機関銃から発射された弾丸も収集。
12.7ミリ砲の弾丸と薬きょうを幾つも所有、これらも近隣の畑の中から掘り出したもの。相当撃ち込まれ畑の中に埋まってる。動くものが見えたら撃ったらしい。
人家の壁に今も残る12.7ミリ砲の貫通痕。2,3ミリの鉄板を射抜いた痕跡、2トン爆弾、焼夷弾の残骸。
上記中日新聞の記事では「学徒動員された同世代が大人たちのせいで亡くなった」と書くけどあの戦争をそう単純に総括しないでくれ。
中日新聞は日曜版で「特攻のメカニズム」という連載を続けていた。記録作家林えいだい(栄代)さんが取材し書き残した遺稿(林えいだい記念ありらん文庫資料室)を元に記者がまとめたもの。
特攻に関しては様々な記録や書籍、印刷物があって全部を知ってる訳じゃないけれど読んだ中に「今日われ生きてあり」と「不時着」
「不時着」2004年刊、日高恒太朗著
「今日われ生きてあり」 1993年刊 神坂次郎著
「不時着」は特攻に出撃したけれど途中エンジントラブルで帰還したり、帰還できなかったり、さらには途中で不時着したりした特攻機もあったという事を調べて本にしたもの。
著者の出身は種子島、沖縄を目指して飛び立った特攻機の少なからぬ機が不時着をしたという父母の云い伝えが執筆の発端。
一心に国を思い死へと敢然と赴いた若いパイロットばかりではなかった。苦悩し引き返したり不時着した人もいた。
その事を当事者を訪ね丹念に聞き歩きしてまとめた著作。美化する事なく、しかし特攻し散華した若者もいた。その思い、行動は尊い。その御霊に黙祷。
「今日われ生きてあり」の著者も陸軍航空学校生、終戦時18歳。同年代の若者が特攻で散って行った事を我が身の事と重ね記録をもとに記述した本。
この本の読書録を2004年に以前持っていたHPに記録。当地との関わりもある事から再掲。
「今日われ生きてあり」 2005年8月
今年の3月に、父親が鹿児島への長旅をしました。目的地は知覧。前から一度行きたいと言いながらなかなか実現できなかったことでしたが、戦友会がここで開催されることになり、一人で出かけました。どんな旅だったのか詳しくは聞いていませんが、昭和20年の終戦時には19歳と9ヶ月、今も大事に持っている航空機関士の資格証、そこには95式とか立川式とか、三菱式とか、整備できる飛行機の機種が書かれ、当時飛行機の整備をしていた身には、この知覧から飛び立っていった同世代の特別攻撃隊員の事は、感慨その他複雑に絡み合った深い思いがあったことでしょう。
特別攻撃隊、特攻のことは、我々の世代では、戦争を否定する時代の空気が強く、軍国調であるとのバイアスがかかりいささか避けてきたような気がします。知覧という地名が特攻隊の出撃基地であったことが知識としてあっても、そこから飛び立っていった隊員の姿、様子についてはよく知らずに来てしまいました。そんな中、6月頃、この特攻隊員のことを書いた本がTVで話題になったそうで、さっそく出版社はこれを増刷して本屋の店頭に平積み、ためにその本「今日われ生きてあり」(新潮文庫)を手にする機会がありました。作者は神坂次郎、かつて「元禄御畳奉行の日記」を著した人、この人の書いたものであればと購入、読んでみてその内容、事実にさまざまな思いが湧いてきました。
筆者神坂次郎は、昭和2年生まれ、終戦時18歳、昭和18年に陸軍航空学校に入校、この知覧との関わりは、短い日数ながら滞在、やがて小牧の通信飛行班に移っていったとあります。多感な少年期からやっと青年期に移る頃、作者と同年代の若者が特攻隊として散っていったということは、生涯を通じて作者の心に影を落としていたはずで、あとがきで筆者は、山岡莊八から特攻の執筆を勧められたものの書けず、戦後37年たってからの知覧への旅において決心がつき、以来特攻でたおれた若者や少年達の遺書や日記、書簡集を読みふけり、併せて残された遺族への取材を続け書き上げられたものです。
ここに書かれていることがら、フィクションではない圧倒的な事実の前に何も言うことはありません。ただただ、歴史の波間に隠されていた深い事実を追認して行くのみです。19に分けて語られた話のうちに、ここ各務原が何回も出てきます。各務原には陸軍の飛行場と川崎重工があり飛行機を作っていたからです。そしてエピソードの中に岐阜県出身の特攻隊員が2名出てきました。愛知県出身も一人、さらに細かくみると一人は多治見出身、一人は加茂郡出身、愛知県の方は扶桑町出身、扶桑町というのは、各務原市のすぐ隣の町、木曽川を挟んで県境、愛岐大橋を渡れば扶桑町です。今ほど高い建物がなかった戦前、木曽川の堤防に登れば、各務原飛行場を発着する飛行機の勇姿は対岸からも見えたことでしょう。第6話に出てくる扶桑出身の千田伍長は、小さい頃から飛行機の飛び立つ姿を眺めて育ったに違いありません。
第6話 「あのひとたち」 に書かれている千田伍長、昭和20年5月27日、第72振武隊員として出撃、この日この特攻を受けた連合国側の艦船は大きな被害を被り、駆逐鑑ドレックスラーは特攻機が命中してから50秒足らずで沈没していったとオーストラリアの新聞特派員の記事にあります。千田伍長は、「ご両親様、この年20年、幸福に育ちました。明日出撃します。兄上たちによろしく。我が法名には「純」を忘れないように願う・・・」という遺書を残しています。20歳という若さでこの落ち着き様には驚かされます。我が二十歳を振り返るとため息が出てきます。
隣町のことですから、ある日扶桑町の図書館を訪ねてみました。以前にうちのお客さんで扶桑町に住む千田さんという方がみえて何か話が聞けるのではないかと思ったのですが、千田という名字はここでは非常に多くあってどうやら無理らしいと判り、それで資料はないかと寄ってみたのです。司書の方から2冊の立派な町史を出してもらいページをめくると、大戦時の戦死者名簿に特攻隊として亡くなられたという記載がありました。しかし同じ町史に、「神風特攻隊という悲壮な戦術の犠牲者のことも忘れてはならないが、扶桑出身者のことについては不明である」という何か微妙な及び腰の記述がありました。それ以上の情報はありませんでした。調べれば遺族の方の住所も判るとは思いましたが、判ったところで訪ねていっても手数を煩わせるだけのこと、そこで町内にある鎮魂碑を訪ねてみましたがここに千田さんの名前はありませんでした。
加茂郡もすぐお隣です。ここにも立ち寄ってみました。手掛かりは「加茂郡上米田村」、第4話「第百三振武隊出撃せよ」 に出てくる岩井伍長のご遺族の手紙の住所にそう書いてありました。加茂郡というから合併して美濃加茂市となっていると思っていたらそうではなく、加茂郡川辺町という町の一部だということ、それで町役場に行き旧上米田村の大まかな位置関係を聞きました。山林を含めた広い範囲、ここでも変に聞き回って不審がられて、じゃあ何しにきたと問われれば答えに窮します。山間の、静かな時の流れているところでした。しばし町道を走っていると古いお寺、ここにお墓があるのではないかと降りて中に入ってみましたが墓はありませんでした。それでは帰ろうと交差点にかかって左折のウインカーを出したら前方にお墓、直進して降りてみたらそこに岩井さんのお墓がありました。
岩井伍長は昭和20年4月13日、特攻に出撃します。第百三振武隊として、しかしそれはたった一機で、その理由は、前日5機で出撃したものの、岩井伍長の機は故障で帰還、「ああみんなに遅れた」と泣きはらし、再度特攻に向かいました。その時の様子が知覧高等女学校3年の特攻隊担当の女子生徒が遺族に宛てた手紙に記されています。死地に向かい、戻り、またおもむく。この信念のつよさに複雑な思いが交叉します。お墓には二人分の戒名がありました。本にも書いてありますが、長男が南島コロンバンガラ島で戦死、次男も特攻で亡くし、お父さんは手紙で「諦めてみたり泣いてみたりの日を送って居ります」とあり、その二人のお墓でした。・・・昭和20年4月13日 於特攻機 沖縄戦死 行年21歳 ・・・と彫ってありました。合掌。(本では特攻に出かけた年齢を18歳としてありましたが、墓誌には21歳とありこれは本の方の勘違いかも知れません)
第16話、「惜別の歌」に出てくる川口少尉は多治見出身で、こちらを訪ねることは出来ませんでしたが、本の中でかつて川口少尉が過ごした福島県原ノ町の時代にであった少女との交友、後年岐阜を訪ねたかつての少女は、川口少尉をそのまま中年にしたような弟さんと出会いを果たします。弟さんは当時学徒動員で各務原の工場で飛行機の部品を作っていて、「一生懸命飛行機を造って、兄貴達を死なせてしまった・・・こんな事なら怠けていれば良かった」と複雑な思いを述べています。残された人たちは生が続いても辛い思いを胸に秘めて生きていきます。でも本当に辛かったのは死を命令された本人達です。ここに書かれた話は特攻で死んだ人たちのほんの一部でしかありません。
実はこの本と併せて「不時着」というやはり特攻をテーマにした本と併せて読み進めていたのですが、特攻に疑問を持ち、自らの意志とほんの気まぐれな運命とに翻弄されながら生き残った人もいました。こちらの本に書かれた事実も辛く苦しいものです。そして両方に共通して流れる暗い旋律は、「今日われいきてあり」の第5話、「サルミまで」に書かれている事柄、兵達が命令に従いサルミまで物資を届けるため生き地獄を歩いてやっとたどり着いたら、第六飛行師団の稲田少将は部隊を置き去りにしてマニラへ遁走、「・・・祖国の急を救うために死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げ込み、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たちが、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿・・」に怒りを向けています。