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西武百貨店 売却 80年代には文化拠点として輝いてた

 NHK一昨日夕方7時のニュース、トップは西武百貨店ストライキだった。百貨店なんて今は云わないからデパートか、60年ぶりなんだそうで。

 ストライキと云えば昭和の時代、国鉄、私鉄、鉄道、バスが主役。春闘で毎年春にあった通勤、通学の混乱。みんなスト慣れしてあれは春の季語でもあった。

 デパートあたり流通業では稀だったから60年ぶり、まぁ時代の趨勢に取り残されていく象徴。ストしたって流れは変わらないから世間は冷めてる。

 ストライキを打つと云ったその後すぐに経営側は企業譲渡を決定、利益出せないんだから仕方がなかろう。譲渡価格8500万円って、あの輝いてた西武がそんな価値しかなかった。 

www.nikkei.com 70年代、80年代の池袋西武デパートには少し思い出があります。正面から見て右手パルコのあったところは丸物百貨店だった。

 丸物百貨店は京都が本店、岐阜の柳ケ瀬市電の走るメインロードに面し岐阜丸物がデンとそびえてた。岐阜で百貨店といえばマルブツだった。

 その丸物が池袋にまだあった頃この池袋西武を舞台にした日活映画を見てる。小林旭主演の「都会の空の用心棒」(1960年)西武航空のヘリポートが百貨店屋上にあって東京の空を飛ぶ活劇映画。共演は浅丘ルリ子。 

www.amazon.co.jp(予告編が見られます)
 
 

 その頃の西武百貨店は経営者が堤康次郎、その後70年代に入り息子の堤清二が社長となって80年代に最盛期を迎えてる。

 堤清二、小説家辻井喬は経営者でもあり文人でもあり東京のはずれにあった西武百貨店を一大文化拠点に変貌させ新しいデパート像を作り上げた。

 糸井重里の作った「おいしい生活」というキャッチコピー、あまりにもシンプルでヒネリがなくよくこんなコピーが採用されたもんだと当時思ったけれど巷間もて囃された。

 通勤経路からは外れるんだけどよく西武デパートには出掛けた。なんでもごった煮風の百貨店から個性的な店舗の集合体への変身。

 昔の百貨店には大食堂があって、洋風、和風、中華とメニューには何でもあった。それを食のジャンルごとに区切って、さらに有名専門店の味を揃えてレベルの高い食を提供する。

 同じ事を世界のファッションの高級ブランドと提携しワンランク質の違う生活様式のプレゼンテーションで話題を集め業界の先端を走り出した。

 高級ブランド商品を売るだけでなく西武デパートが一つの文化集合体として輝いてた。まさに経営者堤清二の個性と思想が具現化された極上の作品だった。


 
 エレベーターに乗ってたらいかにも都会人といった垢ぬけた風体のロックバンドの若者がギターを抱えて乗って来た。

 次の階で見覚えのある顔が乗り込んできた。池田万寿夫と佐藤陽子夫妻だった。何かの催しで呼ばれてたのか遊びに来てたのか。

 華やかであでやか、どこか異次元の空間に迷い込んだかのようだった。館内には美術館もあったし小公演や講演の出来るスタジオももあった。

 半村良の講演があると云うので出掛けた。30人ほどの聴衆を前に高卒後板前もやってたという自身の経験談からタコを茹でる話。

 仕事っぷりが認められやがて伊東の旅館のお嬢さんの婿に迎えられ・・これはウソ、聴衆は皆催眠掛けられたように引き込まれ最後にハッと現実に引き戻される。

 「北の国から」のテレビ放送が始まった頃、8階か9階にあった大型書店「リブロ」に上がっていくエレベーターの降りた先に机が置かれ大人と子供の二人が座っていた。

 倉本聰と小学校2年くらいの小さな女の子。蛍役の中嶋朋子 。サインはして貰わなかったけれど北の国からのシナリオ本は購入。

 ここでよく本を買ったから何かある筈だと本棚を探したら、西武カラーの白地に青、緑の包み紙にカバーされた本が4冊あった。

 

 谷川俊太郎の「わらべうた」「ことばあそびうた」樹村みのりの「ポケットの中の季節」① ②、菜の花畑シリーズが入ってる。この包装紙は田中一光のデザイン。

 

 70年代、80年代にあれだけ光り輝き一大文化拠点だった西武デパートが没落したった8500万円で売却されてしまう。

 当時20代後半から30代で溌剌としてた自分も後期高齢者。時代は変わる。時は移ろう。栄枯盛衰。多少感慨はあれど不思議は有らず。

 

 今朝5時35分 日の出。