1958年8月、ホンダ・スーパーカブ C100 発売開始。
ホンダのスーパーカブ号の生産が終わるというニュース。
初めてオートバイに乗ったのは 昭和30年35年、1960年。中学1年の時だった。同級生の兄貴が持っていた山口オートペット50㏄。
今なら有り得ないけれど放課後のまだ子供たちが一杯いる小学校の校庭を交代で乗り回した。次に乗ったのはホンダのスーパーカブ50㏄。
やはり同級生の友達の兄貴に借りて、一つ年上で14歳、通学に使ってた。当時は14歳で許可証がもらえた。弟の同級生は自転車で通学してた。
校庭を走った時、スピードメーターの針は30キロ程度。それでも頬に当たる風の心地よさ、流れ去る景色の爽快感、もうオートバイに夢中になってしまった。
スーパーカブは当時の50㏄オ―トバイの性能としては突出してて価格は5万円台。あの頃100を超えてあったオートバイメーカーに衝撃を与えた。
スーパーカブは売れに売れてそうなると他社も負けじと性能、デザインを競い新車を発表。着いて来れないメーカーは脱落していった。
それでもモペッドメーカー1960年当時沢山あってそれぞれ独自のデザインと技術を競い合ったが、スーパーカブの高性能に対抗できるメーカーは限られ淘汰されて行った。
スーパーカブが成功したのは当時2サイクルが主流だった小排気量バイクの中にあって4サイクルというエンジンで4.5馬力の出力だった事。
2サイクルはオイル混合ガソリンの為白煙を吐き燃え残りのオイルが垂れて汚れやすかったし馬力も2馬力前後だった。
タンクをシート下に置きエンジンの上に樹脂製のカバーを取り付け跨がなくても乗れる構造にした。
カバーはレッグシールド一体で雨や寒風よけにもなるし空力的にも優れていた。ギヤは3段でギヤチェンジの際クラッチを握らなくてもすむ自動遠心クラッチとした。
この斬新機構が受けた。すぐカブの後を追ったスズキ、ヤマハもアンダーボーンでレッグシールド付きの原付を出したけれどクラッチは付いていた。
昭和30年代まだ戦争が終わって10年余りという戦後の復興期、原付50㏄というバイクは、庶民経済の足もとを固めて行く上で大いなる貢献をした。
あの頃あった原付50㏄、思いつくままに、
ホンダスーパーカブ ヤマハモペッド スズキセルペット BSチャンピオン トーハツランペット 川崎ペットⅯ5 三菱ゲールペット(元はライラック) 富士ラビットスカーレット
自転車メーカーも各社参入
山口オートペット 宮田ミヤペット 片倉シルクペット ゼブラゼブラペット
井関もヘッドだけ水冷のエンジンを乗せたタフペットを出していた。メグロもアミカという50ccを出してた。
あの当時の50㏄バイクの賑わいは戦後経済復興と足並みを揃え、街中を走るそれらのオートバイにバイクに夢中だった中学生はワクワクした毎日を送っていた。
その嚆矢ホンダのスーパーカブ。今朝の中日新聞にも経済欄にカブの写真入り記事。
「ホンダ50㏄生産終了へ」「排ガス規制強化 電動化普及」50㏄では排ガス規制に対応できない。警察庁は125㏄以下を原付免許で乗られるよう制度改正。
生産台数、累計1億台、1958年から2025年までの67年間にわたり基本設計は変わらず少しずつ進化し世界中に普及し利用された。
ナイセストピープル・オン・ホンダという広告、沢山の外人がスーパーカブに乗ったイラスト、アメリカでも人気でビーチボーイズは”リトル・ホンダ”という曲を作って歌ってる。
中国でも生産され早々に丸パクりした中国カブが逆輸入もされてる。安いからと手を出ししたらすぐに壊れて安物買いの銭失い。
排気量が110㏄になったカブは生産されるから「スーパーカブ」が消える訳ではないけれどこれも時代の推移。
本田宗一郎が残した傑作オートバイ。その経緯はホンダのHPに記録されている。
実用車のスーパーカブとはエンジン、車体とも別物だけれど1962年にカブレーシングという50㏄のスポーツバイクが発売されている。
公道を走れる仕様だけれど使用実態からはサーキット走行やモトクロスのレース用に開発されたもの。
当時18万円くらいの価格だった。時代を考えるととてつもないものを作って販売してた。
昨日東海地方は梅雨入り。梅雨に入ったとみられると気象台。
今朝は雨が降って梅雨空。