晴れたり曇ったり

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日本ばかりが勝ちすぎるのでルール変更 1960年代の美しいレーサー

 (前回の続き)

 日本が頑張ると欧米はルールを変更してしまう件、長くなるのでやめた部分に触れたくなったのでアップ。

 ホンダがF1で快進撃を続け他チームは勝てなくなってルールが変更されたと云われてるけれど、F1競技全体から見れば方向としては間違ってないでしょう。

 いろんなチーム、メーカーが切磋琢磨して競い合う、その方が見てて面白いし技術レベルも上がって次のステージの展開につながる。

 

 オートバイの世界グランプリレースに於いても同じような経緯があった。1960年代の前半、ホンダがマン島TTレースに出場し入賞した事を嚆矢として日本車の進撃が始まった。

 まずホンダが、そしてスズキ、ヤマハと続きそれまで欧州のレースシーンを支配してきた英、独、伊のメーカー各社が勝てなくなってしまった。

 そうなると日本のメーカー間の熾烈な争いとなり性能は更に先鋭化。4ストのホンダは2スト有利のヤマハ、スズキに対し多気筒化で対抗。

 125㏄5気筒、250㏄6気筒というとんでもないマシンを繰り出す。ヤマハ、スズキも2スト水冷V型4気筒マシンで対抗。

 

 1963年には50㏄クラスが設けられホンダが4スト2気筒マシンを出して来る。スズキもすぐ2スト2気筒マシンをリリース。

 50㏄てのは普通ボア40㍉のストローク40㍉位が標準的。それが2気筒となるとホンダで35.5×25.14mmの超ショートストローク。スズキで32.5㍉×30㍉。

 スズキは更に3気筒エンジンを開発してた。高回転で馬力を稼ぐためだけどその分トルクが貧弱で使える回転領域、パワーバンドは500回転程度。

 常にその回転域を維持して走る為ミッションを多段化、14速ミッションを備える。50㏄クラスにはブリジストンも参戦、こちらも2スト2気筒14速。

 これでサーキットでは170キロを超えるスピードを確保。あまりにも精密で繊細なエンジンとなって日本以外参戦出来ない。

 

 これに危機感を持ったFIM(2輪のモータースポーツに関する国際的な組織)は1969年からエンジンの気筒数とギヤボックスの段数を制限するレギュレーションに変更。

 結局50㏄クラスは単気筒、ミッションは6速以下となってデルビとかクライドラーといった欧州の小メーカーが参入して来た。

 日本のメーカーの多気筒多段ミッションレーサーは出られなくなりハードルが下がった事で別ステージの激しい戦いが始まった。

 

 

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 60年代50㏄クラスのレーサーは美しいね。

 ホンダもスズキもブリジストンも(ヤマハは50㏄クラスに参戦しなかった)ホンダの50㏄は車重が50キロしかなくまさに無駄をそぎ落とし機能を追求した結果としての美しさ。

 フロントブレーキは自転車と同じリムを挟む形式、タイヤもフロント2.00/18吋、リア2.25/18吋というスリムな寸法。

 トルクが無く非力な分は空力とライダーの腕次第。エンジンが職人技の精密機械ならライダーも神経質なエンジンを意のままに扱える緻密な計算と技能を持った職人。

 ホンダのルイジ・タベリとかラルフ・ブライアンズ。スズキのエルンスト・デグナー、アンシャイト、そしてヒュー・アンダーソン。日本人では片山義美がいた。

 

 アンダーソンはニュージーランド国籍でヘルメットにはキューイ鳥が描かれていた。大柄、長身、50㏄クラスには不利なんだけどその大きな体を折り曲げカウルにすっぽり収めて走ってた。

 スズキのライダーとしては50㏄、125㏄クラスで4回の世界選手権の個人タイトルを獲得、スズキのメーカータイトル獲得に寄与した。

 見聞きする噂は感じのいい人でハンサムだった。ウエストサイド物語のタッカー・スミスに似てた所為もあって好ましく思ってた。

 20年前の事だけど、英国製の旧車バイクの事でニュージーランドの業者に問い合わせのメールを送った時、アンダーソンの知り合いだという事が判って昔応援してたと伝えたら返事、

 「今日、ヒュー・アンダーソンの息子の結婚式に行って来たところだ。彼はとても有名なレーサーだったけど、今でもマンクスに乗ってとても速い、もう67になるんだけどね」

  I went to the wedding of Hugh Anderson's son today! He was a very famous rider, and still is very fast on a Manx, even at 67years old 

 MANXというのはマン島TTレースの名を冠した英国製の単気筒レーサー。ホンダや日本勢が出てくる前迄は各地のレースで活躍したマシン。今も旧車レースで活躍してる。


 
 60年代の無駄を排したマシンの美しさを見てたら、60年以上前の事が思い出され感慨にふけってしまった。

 オートバイはどちらかと云うと悪者扱いされがちだけど、本田宗一郎が切り開いたオートバイ産業、オートバイレースへの道はその後の日本の自動車産業発展への端緒となった。

 1962年に鈴鹿サーキットが出来て日本の本格的なレースが始まり自動車メーカーもレースを始め欧米に比べレベルの低かった日本の自動車メーカーがここで多くを学び成長していった。

 自動車産業はすそ野の広い産業だから日本の工業界全体のレベルが上がって世界に冠たる工業国として世界に羽ばたいていった。

 欧米にすれば後からやって来て目障りでやっかみもあって意地悪もするだろう。その辺は人間皆どこへ行っても変わらない。そこは割り切って負けない様に頑張ればいい。

 ただ隣には苦労してモノにした技術やノウハウをかっぱらう所があるから、セキュリティクリアランス法やスパイ防止法を作って盗まれないようにしないとイカンわね。

 

 

 今朝も雨。これは昨日午前中の山の上。正面御岳山が見える筈が雲で見えず。

 この時登る途中には小雨が降っていたけれど頂上に着いたら細かい雪に変わった。